磯野真穂×吉野なおに聞く、当たり前を脱ぎ捨てるための「食」との向き合い方
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からだが、めぐる
「人は食べたものからできている」と言いますが、自分の身体や心のために私たちは日々どんなものを食べたらいいのでしょうか? 医学的な観点に則れば、栄養のあるもの、健康にいいもの、ヘルシーなもの……と、さまざまな選択肢が思い浮かぶのではないかと思います。しかし、それでもなにを食べたらいいのかわからなくなってしまったり、痩せたいと願うあまりに摂食障害に苦しんだりと、「食べる」ことに難しさを感じる人がいるのも事実です。
今回は、「からだと食べ物についてもっと自由に考えよう」をビジョンに掲げた「からだのシューレ」を主催する文化人類学者の磯野真穂さんと、おなじく「からだのシューレ」メンバーであり、摂食障害に苦しんだ過去を持つ吉野なおさんに、摂食障害からの回復を導いた気づきや、食べること、そしてそこから見つめ直す身体と心の自由なあり方についてお話しを伺いました。
私たちはなぜ、「食べること」に悩んでしまう?
―「衣食住」という言葉があるように、「食」は私たちにとって生活の基礎をつくるものだと思います。自分自身の身体や心のあり方に深く関係するぶん、一体どんなものを、どんなふうに食べたらいいか悩んでしまうこともあるように感じます。そうしたことを踏まえて、まず、「普通に食べること」とはどういうことなのか考えてみたいのですが、お二人のご意見を伺いたいです。
磯野:私は『なぜふつうに食べられないのかー拒食と過食の文化人類学』(2015年、春秋社)という本を書いたのですが、拒食とか過食で悩んでいる方のお話を聞かせていただくなかで、やっぱり「普通に食べたい」ということが大きなテーマになっているなと感じたんです。
吉野:私も過食症に悩んでいたときは「なんで普通に食べられないんだろう」といつも悩んでいました。常に食べ物のことで頭の中が支配されている感じなんです。
磯野:そういう人に向けたよくあるアドバイスが「自分らしく食べればいい」というものなのですが、そうすると、じゃあ今度は「自分らしい」ってなんだろう? という疑問が生まれて、さらにグルグル考えだしてしまうことがあります。
吉野:わかります(笑)。
磯野:それが「普通に食べる」ことをまた難しくしているような気がします。なおさんは今、食べることをどんなふうに考えているんですか?
吉野:私が今の考えに至ったのは、食べることにあまり注目し過ぎないほうが普通でいられるんじゃないかということ。一日のなかで食はあくまで脇役で、必要なときに食べられて、そうじゃないときには「いらない」と判断できることが、私にとって健康な食べ方だなと思っています。
―「普通」に食べられない、食べ過ぎてしまう、食べ物にこだわってしまう……など、「食べること」への向き合い方について迷う方は多いかと思います。なぜこのような悩みが生まれるのでしょうか?
吉野:人によって理由はさまざまだとは思うんですけど、私自身、摂食障害だった時期を振り返ってみると、やっぱりもともと体型や見た目について何かしら悩んでいて、そのはけ口が食べることや食べないことだったんだと思うんです。悩みのはけ口って、ギャンブルだったりアルコールだったりする人もいると思うんですが、食って、何より身近なものじゃないですか。だからこそちょっと調べると「痩せる」とか「キレイになる」という情報がたくさん出てきて、「やってみようかな」という軽い気持ちから、ストイックにはまり込んでしまう人は意外と多いと思うんです。
私も含め、食事制限にストイックになってしまう人は体型についてのコンプレックスがその人の人生にとって大きい問題だったりするんです。それは小さな頃から体型のことで嫌な思いをし続けてきたり、「太ることは恐ろしいこと、痩せることは素晴らしいこと」という社会風潮のなかで生きてきたからというのがあって。だから、「痩せたらいいことがある」「痩せれば自分の人生がよくなる」と思い込んでしまうんです。幸せになりたくて、ダイエットを必死に頑張るんですね。
磯野:摂食障害で悩む人が女性に多いというのも、やっぱり女性の方がいまだに体型で評価されやすいということがあると思いますね。なおさんが言うように、「痩せたらいいことがある」というのも、ある意味本当なんだと思います。実際、体型にひどく自信がない人が痩せたて褒められたら、とても嬉しいのは当然なのではないでしょうか。さらに追い討ちをかけるのが、「ちゃんとしている人は痩せている」というイメージです。自分の体重をコントロールできる人は、身体も健康で心も美しいみたいなメッセージがあちこちにありませんか? 「痩せたらこうなる」というわかりやすいイメージやストーリーがこれだけ提示されれば、影響されてしまうのはごく自然なことだと思うんです。
―少しずつ変化しているかもしれませんが、人を見た目で「判断」してしまうのは、そうした過剰なイメージによる影響が大きいのかもしれません。吉野さんは、10代後半から20代にかけて摂食障害に苦しんだそうですが、どうやって抜け出すことができたのでしょうか?
吉野:きっかけは何万人ものプロフィール写真を扱うアルバイトをしたことでした。毎日、いろんな人の顔写真を見ていると、顔の大きさも身体の造形も一人として同じじゃないということに気づいて。なかには太っている女性もいたんですけど、プロフィール写真だからにっこり笑っているんです。すごくポジティブな印象を受けました。それまで、太った女性ってダイエット広告で見る「before/after」の「before」のイメージで、それはどんより暗い顔をして、いかにも幸せじゃなさそうな感じに写っていたから、「太っている=不幸」だと思っていたんです。だけど、それって実は違うんじゃないかって思い始めたことが最初のきっかけでした。
磯野:それを聞いたとき、「世の中の人の多様性に気づく」という意味ですごく人類学っぽいなと思ったんです。こんなにいろんな人がいるのに、自分が「痩せている」というある一つの女性のタイプにならなきゃいけないと思い込んでいた、そのなおさんの気づきは、医学的な観点とはまた違う摂食障害の回復の仕方だなと興味を持ちました。
吉野:それから別に過食症を直そうとしたわけじゃなく、まずこのままの自分を受け入れてみたらどうなるんだろうと考えたんです。これまでコンビニに行っても、カロリーばかり気にして買うものを制限していたのをやめて、そもそも「今、自分がそれを本当に食べたいのか」ということを考えるようにしました。そして、食べたいときにちゃんと食べたいものを食べれば気持ちが満たされて、それ以上欲しなくなるということがわかったんです。ダイエット思考だったときは「普通に食べると太ってしまうんじゃないか」とずっと思い込んでいたのですが、自分の心と身体に聞いて食べることができるようになったら、太るどころか自然に体重も落ち着いていって、いつの間にか過食も手放すことができたという感じです。
食への視点を変えることで伝えたい、「手放しても大丈夫」だということ
―「からだのシューレ」は「からだと食べ物についてもっと自由に考えよう」というコンセプトを掲げていらっしゃいますが、具体的にどんな活動をされているのでしょうか?
磯野:私が「からだのシューレ」を設立した当時、摂食障害やダイエット、食、身体に関する情報として手に入れられるのは、心理学、医学、栄養学的なものばかりだったんです。でも、拒食や過食に苦しむ状態というのは、人と社会の関わりのなかで起こるもの。その人の「食べる・食べない」という選択の裏側には、その人を取り囲む世界があるのだということを伝えるワークショップを、人類学を使って行いたいと思ったんです。
たとえば、食べることや食べ物への恐怖心に注目してみる。拒食や過食になると、どんな食べ物も「大丈夫」と思えなくなってしまうんですよね。カロリーが書いてないものは怖くて食べられないとか、添加物があるから食べられないとかいう人は多い。「からだのシューレ」では、それを怖くないんだよって教えるんじゃなくて、その「怖い」という気持ちはどういうふうにできているんだろう? とみんなで考えてみるんです。
―「からだのシューレ」に参加された方で何か変化を感じたという方もいますか?
磯野:毎回来てくれていた参加者のお一人が、ある日、「当たり前を脱ぎ捨てられた気がしました」と言ってくれたんです。ワークショップを重ねるなかで、健康的なものを食べなきゃいけないとか、これを食べたらよくないとか、この体重になったらまずいとか思っていたことが、視点を変えて考えてみることで、そうじゃなかったんだと気づいたと。だからといって全部悩みが解決するとかそういうことはないんですけど、手放しても大丈夫なんだと思ってくださる方もいます。
吉野:私も毎回、磯野さんの持って来てくださるテーマに気づかされることはすごく多いですし、勉強になります。摂食障害の当事者同士がお互いの話をできる場所でもありますよね。
―当事者のお話のなかで、印象に残っているものはありますか?
磯野:今はほぼ回復したものの、過去には過食をしては毎日大量の下剤を飲むことを繰り返していたという方が「シューレ」に一度参加してくださったとき、「たまに過食しても、昔ほど過食のパフォーマンスが出せない」と言ってたのが、すごくおかしくて。「もう自分は現役を引退して『過食のマスターズ』にいるんだ」って言うんです。そういうふうに、自分の抱えている問題を冗談で言って笑えちゃうのは最高だなと思いますね。もちろんデリケートな問題なので誰でもできるわけではないと思うんですが、そういう感覚が生きる余裕をつくってくれるんだろうなと思います。
「痩せること」がゴールになると苦しくなってしまう。本当に求めるものを思い出して
―「からだのシューレ」では当たり前と思われている「食」の固定観念について考え直すというようなこともやっていらっしゃいますよね。
吉野:巷のいろんなダイエット広告を集めてみるということもやりましたよね。
磯野:そうそう。5kgの脂肪の塊はこれくらいの大きさです! と大きく載せている広告とか、脂肪を燃やす炎のイメージとか、「この商品を使った人の98%が満足!」という統計とか(笑)。よく目にしているそういった広告を俯瞰で見てみると、シュールで笑えるものが多いんですよ。
―そういった数々の広告が発するイメージが、体型や見た目における「こうあるべき」を押し付ける社会をつくっているのかもしれませんね。
吉野:それに、昔からダイエットには「ブーム」みたいなものがあって、新しいものがどんどん出てきては飛びつくみたいなことを繰り返してしまう人も多いと思うんですよね。
磯野:2010年過ぎから広がり始めた「糖質=ダイエットにおける悪者」というイメージもかなり定着したと思います。「糖質オフ」ってよく聞きますけど、なぜ糖質を摂りすぎると太りやすくなってしまうのか理解せずにやっている人もいるんじゃないでしょうか。
吉野:本気で糖質オフしようとしてない人でも、なんとなくいいみたいだから買っちゃおうってことも、きっとありますよね。
磯野:そうそう。また、最近流行っているのが「ファスティング」ですよね。いろいろ、科学的に説明されてはいますが、食べなきゃ痩せるのは当たり前です。でも、それがファスティングという用語になり、科学の言葉で説明されると、なんだかすごくキラキラした最先端のものに聞こえてくる。
―やっぱり「いい感じ」のものには憧れてしまうところがありますし、飛びつきたくなってしまう気持ちもわかります。
磯野:実験的にやってみるのはいいと思うんですよ。ただ、痩せることが目的化すると、おかしなことが起こってくる。拒食や過食に苦しむ方のなかは、人間関係をよくしたいとか、好きな人を振り向かせたいとか、そういうことが痩せることの目的としてあったことが多いんです。でも、いつの間にか痩せることがゴールになってしまい、それが新しい苦しさを生んでしまう。
吉野:ファスティングしている人もそうだと思うんですけど、食に対してこだわりを持ちすぎるようになると、人と食事ができなくなりますよね。それでどんどん人と疎遠になってしまったりもして、そうすると本当に負のスパイラルです。
―「痩せること=いいこと」という思い込みから脱するにはどうしたらいいのでしょうか?
磯野:あくまで実験としてやってみる、というのが大前提ですが、やりたいのであれば一度徹底的にダイエットに挑戦してみるのも一つの手だと思います。それによって本当に欲しい人生が手に入るかどうかやってみる。ただ、先ほども言ったとおり、目的がすげ替えられてしまったり、自分にとって大切な人たちが離れていってしまったりするようなら、そこでブレーキをかける。
吉野:私は痩せた時期、褒めてくれる人にばかり会いに行っていました。でも周りも慣れてくるからだんだん褒められなくなってくるんですよね。そうするともっと痩せなきゃと更に追い詰められていって。でも、そんなことで人間関係に一喜一憂するのっておかしいですよね。
―なりたい自分になろうとする姿勢や努力は尊重すべきものであるものの、外見で人の価値が決められるという考えに囚われてしまったり、自分自身を肯定する判断基準が「痩せているかどうか」だけになってしまったりすると、大切ななにかを見失ってしまうのかもしれません。
吉野:そもそも痩せる以前から、私の人間性が面白いから、気が合うからと友達になってくれた人たちがいるわけで、私が5kg痩せたからもっと大好きになったり、逆に太ったからといって嫌いになったりするわけじゃない。本当に、大事なことを見失っていました。
情報を真に受け過ぎない。自分のリズムを守る。心地よく「食べる」ために実践できること
―お二人は身体も心もめぐりがいい状態でいるためには、日々どんな風に食と向き合っていくのがいいと思いますか?
吉野:たとえば、食べ過ぎてしまうとき、「食べること」をなんとかしようとそこだけに注目する人が多いと思うんですが、原因は別のところにあるということも多い。私の場合は、仕事とか、家庭のことでストレスを感じているときに過食が出やすくなりました。それがわかると、ストレスを解消するために楽しいことをしようとか、旅行に行ってリフレッシュしようとか、根本的な解決策が見えてくるようになりました。
磯野:「食べること」単体の問題ではなく、すべてつながっているということですよね。やっぱり自分がどういうときにどういう状態に陥りやすいかわかってくると安定すると思います。私も最近それがようやく掴めてきました。たとえば仕事に追われていると、自分が過剰にアクセルを踏んでいるような感覚になり、そわそわしてしまう。そういうときは、あえて「スピードを落とす」ということを心がけるんです。わざとお茶をゆっくり飲むとか、白菜をゆっくり刻むとか(笑)。そうすると自分の生活のリズムを調整できます。
―ここまで、磯野さんには文化人類学者として、そして吉野さんにはご自身の摂食障害の経験から、私たちはどんなふうに「食べる」ことに向き合っていけるかお話しいただきました。最後に、お二人は自分が心地よい食べ方とはどのようなものだと思いますか?
磯野:今の社会って、自分を見ろとか自分を感じろとか、ものすごく強烈な光が自分に当たりますよね。でも、そうすると自分ってなんだろうとか、自分は何を成し遂げられるんだろうと考え始めてしまい、結局自分と誰かを比較してしまうんです。なので、私は自分にばかり光を当てるのではなく、どんな人といるときの自分が心地よいかというふうに、関係性で考えたほうがいいと思います。
あとは、「普通に食べること」を考え始めると、カロリーや栄養素などを気にしすぎて、医学や栄養学的な観点で「正常に」や「正しく」食べようとしすぎてしまうこともあると思うんです。でも、ちょっと歴史を遡ってみたり、違う文化圏に飛び込めば「食べ物があるときに食べられる」状態で過ごしている人もいて。それがその文化や状況における「普通に食べる」ことである場合も多い。私が研究してきた文化人類学から考えると、正直、肉や魚、野菜、そしてご飯かパンをぐるぐると順繰りに食べていれば、特に問題は起こらないんじゃないかと思います。世界にはいろんな民族がいますけど、ほぼ芋類しか食べていない人々もいます。
吉野:ダイエット成功した人が言うんですよ。「痩せたら自分らしく生きるってどんなことかわかりました」「自分のことをちゃんとケアしてあげると変われるんだってわかりました」って。本当にそういう人もいるとは思うんですけど、そんな情報だけを真に受けて、急に低カロリーの食べ物を意識したり食事制限を始めたり、我慢しようとして自分を責めないでほしい。そんなことよりも、自分の好きなものに触れているほうがよっぽど幸せになれるんじゃないかな。
取材・文:秦レンナ
撮影:寺内暁
編集:石澤萌