ermhoiの孤独との向き合い方。風景写真と“もの派”から得たヒント
ermhoiコラム連載「こころがめぐり、おどる、カルチャー」
vol.2
川の流れが岩を削っていくように、日々多くの情報の波のなかで、なんだか少しずつ心がやせ細っていってしまうような感覚を覚えるーーそんな人も少なくないでしょう。私たちが本来持っていた素朴な心のありようを思い出すためには、何をしたらいいのでしょうか。
この連載『こころがめぐり、おどる、カルチャー』では、ソロをはじめ、Black Boboiやmillennium paradeなど多様なかたちで音楽表現を行うミュージシャンのermhoiさんが、その時々のこころに寄りそいながら、めぐりをうながしてくれるカルチャーを紹介。第2回目の今回は、日々SNSから感じる漠然とした孤独感について、そして父とふたりで訪れた北海道で出会った風景写真、最近観たアート作品やそれにまつわる音楽を紹介していただきました。
漠然とした孤独の最中、父とふたりで北海道旅行へ
これまで会社員を経験したが、2年と続かなかった。隔日で続けようと思ったランニングも3回と続かなかった。飽き性だからか、習慣というものが全く身につかない私は、毎日同じ時間に起きれない。前回のコラムに書いた通り情報過多にNoと言いながら、なんだかんだYouTube、SNS、ニュースをしばらく眺めて、喉が渇いたなって時に起き上がる。朝、目が覚めてからベッドを出るまでの非常に無計画な時間。結局何やったらいいかわからない時は携帯を眺めてしまうのだ。そんな日々だからかなんか孤独だなって思ったりすることも増えた。やっぱりSNSはすごいね。日々の仕事は家で一人でこなすものが多いからこそ、隙間時間にSNSを見ると突然襲ってくる漠然とした孤独感。あれはあくまでも華やかな生活を演出する幻想的なステージ。わかっていても、悔しいことに私の日々の思考は何かしらSNSと繋がってしまっているようだ。完全にドーパミン中毒。
話は変わるが、夏の終わりに北海道に行ってきた。私の父の育った地だ。なぜだか私は一度も行ったことがなく、北海道を非常に遠い存在に感じていたが、札幌にてSAPPORO CITY JAZZというフェスへの出演が決まったことをきっかけに、父とふたりで2泊3日、富良野、美瑛、旭川という中心部をめぐることにした。
父は長年大学でフランス語や文学を研究し、教えてきた熱心な人だが、退官後の今は庭いじりに精を出している。とは言っても植物のほうではなく、タイルやコンクリート、枕木を組み合わせ、庭をデザインしているような感じだ。私が父の故郷の地でジャズフェスに出るなんてそうない機会だし、とにかく娘としては熱中症に気をつけてほしいので、真夏の庭いじりをしばし休憩して一緒に来てもらうことになったのだ。
レンタカーを借りて、札幌の街を後に、広大な北の国をゆく。この旅のBGMは父親の好きなボサノバと私の好きなポップスの間をとってMPB(Musica Pop Brazilia)だ。味噌ラーメン、お寿司、富良野のラベンダーと観光客にはお馴染みの行程を楽しみ、たどり着いた美瑛では突然現れたダイナミックな丘陵地帯に驚いた。「いやあ素晴らしい!」と歓声を上げていた時に流れていたのは ガル・コスタの “Como 2 e 2 (Solo)”。
前田真三の風景写真に宿る静寂と躍動感
そしてこの景色と音楽の記憶にさらに強い印象を与えたのが拓真館で観た前田真三の生誕100年を記念した写真展『SHINZO MAEDA 100 丘から丘へ』だった。
前田真三の代表作のひとつ『麦秋鮮烈』
前田真三『静かな夕暮れ』
自然と人の手が合わさって作り上げられたこの美しい光景を圧倒的な感性で切り取った前田真三の写真を見て、じわじわとした静かな興奮を覚えた。風景写真を見てこんなに心が揺れ動いたことはなかった。ジャズフェスまでの数週間は制作やライブ準備のため一人で過ごすことも多かったし、チラチラと眺めてしまうSNS上で孤独とは真反対の人々の様子を見て、さらに際立った孤独感に否定的になってしまい、負のループが起こっていたのだが、丘のありのままの様子を写した写真の、静寂と躍動感の絶妙なバランス感覚に釘付けになり、孤独や不安が渦巻いていた自分の脳内世界がいつの間にかちっぽけに感じて、思考がすっかり晴れてしまった。
父とはあらゆることを話した。音楽、政治、社会、経済、映画、昔話、少し際どいところでは自分の生理についても話した。父親とこんなに話したのは多分初めてで、旅が私を完全に解放させてくれたのだと思う。むしろ出会ってから30年経つこの節目の年に父と友になれたのかもしれない。
“もの派”の巨匠・李禹煥に感じた瞑想、再び一人の時間と対峙
さて、東京に戻ってきた私は再び一人の時間と向き合っていた。北海道で素敵な時間を送ってスッキリしても、日常はすぐにBad Habitとなっていくのだ。そんなループを断ち切るためにも、外に出なければ、と国立新美術館にて李禹煥(リ・ウーファン)展を観てきた。
李禹煥は韓国生まれで、日本を拠点に活動している世界的な美術家。“もの派”という1960年代から70年代にかけて起こった未加工の自然物質を作品の中心に置く作風のムーブメントを牽引した。石や鉄、木片などありふれた物をただ空間に配置することで、空間と物との間で相互関係が作られる、という解説がされていた。真っ白なキャンバスに筆のストロークが数本あるだけの作品はかえって空間が強調されるような感覚を受ける。どれも作家が何かを意図して作った作品ではあるが、そのストロークと空間の関係、石と空間の関係を作家自身がコントロールすることはできない。自然のように、あるがままを受け入れるのは鑑賞者だけじゃなくて、作家自身もそういう態度で臨んでいるのではないかと捉えられた。空間や無を、作り出したり、浮かび上がらせたりするための事物や現象を意図的に用意する、それが自分なりの“瞑想”の解釈と近い感覚だと感じた。
瞑想が孤独感とか寂しさの解消に良いと聞いてから、少しずつ瞑想をするようになった。まだまだ初心者の私はアプリのHeadspaceを使っている。いろんなコースがあって、1日の始まりから終わりまでさまざまなフェーズでガイドの声に従って瞑想するのだ。身の回りの空間や音、自分の体をあるがままに捉える。考えが浮かんでも、それ自体を現象として捉える。うまくいく時といかない時とあるが、いつも不思議だがじんわりあったかくなって、孤独や不安が軽くなっていることが多い。
そんな感覚をすごく優しく音楽にしてくれてる気がするのが、Floristの“As Alone”という曲だ。
– And Emily, just know that you’re not as alone
As you feel in the dark
-ねえエミリー、本当はあなたが暗闇の中で感じてるほど
孤独ではないってことを忘れないでね
習慣というものからとことん逃げて、結局孤独感のループにハマってる自分に嫌気がさしてたけど、父と共有した北海道での時間、前田真三、李禹煥の作品を通して、もっと穏やかに、もっと愛を持って、自分と向き合えるようになった気がする。孤独であることが寂しさとイコールとなってはいけない、孤独はありのままの自分を取り戻すために大事だって、忘れないようにしないと。私は美瑛で見たあの丘陵のような素朴で雄大な心を持った人でありたい。
文・メインビジュアル:ermhoi
編集:飯嶋藍子(sou)