ermhoiのこころを救う音楽&映画。社会とのズレに疲れたときに
ermhoiコラム連載「こころがめぐり、おどる、カルチャー」
vol.1
何気なく聞こえてきた音楽、楽しみにしていた映画、ふらっと入った美術館で見たアートピースや、眠る前に読んだ本。忙しく日々を過ごす中で出会うさまざまな作品は、疲れがちな私たちのこころをめぐらせ、思いもしなかった彩光を差し込んでくれます。
この連載『こころがめぐり、おどる、カルチャー』では、ソロをはじめ、Black Boboiやmillennium paradeなど多様なかたちで音楽表現を行うミュージシャンのermhoiさんが、その時々のこころに寄りそいながら、めぐりをうながしてくれるカルチャーを紹介。第1回目の今回は、たくさんの情報や声に埋もれてしまいそうな日々のなかで、自分の輪郭を取り戻すきっかけをくれる音楽と映画を紹介していただきました。
10年ぶりに思考をノートに書き綴って得た気楽さ
自分の思考を溢れ出させてみる。
10代から20代の頭にかけて、よく思い詰めたらノートに書きなぐっていた。一種のリラクゼーションだと思って、部屋でも、移動中でも、旅先でも。
でも、そこに存在する思考だったり感情って、整理されてスッキリするものもあれば結局ぐるぐると止まらなくなって収まらなくなって、リラックスどころか心臓は騒がしいままで、結局は手が疲れて、もしくは途中で目的地にたどり着いて中断されてしまうことも多々あった。なんとも荒々しい時代だった。
月日は経ち、いつの間にかノートに向き合うこともなくなって、思考という行為自体は創作のためのツールとして使うようになっていたのだが、最近とあるきっかけで再び思考の吐露ということをやってみた。しかも、前よりもストイックに1時間止まらずに書き続けるということを数日間繰り返すのだ。
そのときに私の心臓は10年ほど前の荒々しい感情を思い出していた。ある瞬間では、あらゆる角度の感情の濃度が上がって、じっと座っていることに変わりないが体内では小さな爆発が無数に起きているように感じた。それが非常に面白かった。またある瞬間では“無”という状態が輪郭をしっかり持って「あ、今私何も考えられない状態だ」とはっきりわかるので、今は何もしないでいいや、と思えるようになった。かつてないほどに気楽になれた。
情報がずーっと追いかけてくるような時代において、自分とだけ向き合うことってなかなかやってないものだと気がついた。常に友人と自分、家族と自分、仕事と自分、遊びと自分、SNS世界の人たちと自分、そういう外側の対象と自分との距離感や違い、類似点を感じ続けながら生きている。それが社会の根幹を成しているし、当たり前と言えばそれまでなのだが、現代社会はその対象があまりに多いのではなかろうか。
情報過多社会も音楽に転化させると面白い
それではかなり疲れるし、最近の私は「情報はもう結構です。どうも」という感じだが、情報過多社会も音楽に転化させてみると結構面白い。ここ数年はさまざまなジャンルの中で、さまざまなアイデアが一曲に詰め込まれた忙しい音楽(文脈的に誤解を招くが決して批判しているわけではない)がたくさん出ている。たとえば、six impalaもそうだ。
そんな忙しい音楽の中でも、特にblack midiは、ポエトリー、ジャズ、ロック、ミニマルミュージック、さまざまなジャンルが同時に流れる最高に面白いバンドである。私自身たくさんの音楽の影響下にあって、ジャンルをクロスオーバーさせながら作ることが楽しくてこれまでずっと創作を続けてきたようなものだが、最近は自分が曲を作るとき、5秒ごとに新しい要素を入れなければ聴いている人に飽きられてしまうのでは、それこそ1.5倍速で再生されてしまうのではないのか、と少し恐怖も抱きながら作るようになってきた。情報過多の弊害。なんとも忙しない日々である。
素晴らしい作品に触れてわかるのは、「自分が誰か」ということ
話は少し戻るが、SNSや報道を見続けていると自分と社会の異なる部分ばかりが目立つようになってくる。好きなもの、嫌いなもの、理想像、許容量。そのズレが心地よくて自信がつくこともある。でも、絶対に許せないことが許されていることとか、これは別にどうでもいいんじゃないか、ってことがすごく騒がれていたりするのを見かけると、いたたまれなくなってきたりもする。
たまにはSNSなど、青い鳥たちのさえずりに自分の声を混ぜてみようとするが、明るい未来とか社会がよくなってくとか、そういう希望の部分があまりにもボヤッとしていて見えてこないし、そうしているうちに虚しくなるので孤独が増幅して押し潰されそうになる。スパイラルから抜け出したいけど、思考は占拠されどうしようもなくなった、そんなときこそ、私を救ってくれるのは映画と音楽なのだ。
そのひとつが映画『C’mon C’mon』。美しく激しくぶつかりあう個々そのものに感動し、涙せずには観られなかった。この映画にも描かれているように、皆ひとつやふたつは自分だけの秘密にしたいけど、共有もして語り合いたい、そんな特別な感情を引き起こす大事な作品があると思う。
私にとって、特別な感情を引き起こす作品の一つが、リンダ・パーハクスの『Parallelograms』だ。美しくカオス、こんなに自由で不思議なフォーク音楽があるのか、と初めて聴いたとき、制作年を疑ってしまった。
このアルバムを1970年に発表してから、リンダ・パーハクス本人は歯科衛生士としてアメリカの片田舎で音楽とは無関係な生活を送っていたというのだ。リンダ・パーハクスの才能を認めたプロデューサーが、ほとんどフォークミュージックしか聴いたことのなかった彼女のインスピレーションのために最新の音楽を一日中聴かせたところ、彼女は「その帰路で宙に見たことのないカラフルな模様が浮かんできて、それを譜面にしてタイトルトラック“Parallelograms”を構成していった」と、のちのインタビューで語っている。インターネットもなく、インプットされる情報が限られている、現代よりシンプルな時代にこそ傑作が生まれるのではないかと憧れを感じさせたエピソードである。
自分を形作る価値観の元となるような作品に触れると、なんとなく自分が誰なのかわかってきて一気に安心する。何に対して感動するのか、どうして感傷的になるのか、自分と対話するように作品鑑賞をしていると、世界とのズレを解消するどころか、ズレていること自体、問題ではなくなってくるのだ。
世の中は相変わらず忙しないが、こんなにダラーっとした新しい音楽もあるよということで、最後にHOMESHAKEをお届けしよう。もともとMac DeMarcoのバンドメンバーだった彼の音楽はほとんどの曲がミドルテンポ。聴き始めると無意識に速くなりすぎた日常のスピード感覚がだんだん緩んでいくような気がするのだ。
文・メインビジュアル:ermhoi
編集:飯嶋藍子(sou)
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