「ありのまま」の解釈も人それぞれ。武田俊・清水淳子と考える他者との違いの面白さ
自分を大切にするってむずかしい。一緒に話そう
vol.1
もっと自分を大切にしながら毎日を過ごしたい。それが切実な願いであったとしても、社会で生きることによってもたらされるさまざまなしがらみから、どうしても難しいと思えてしまう……。ジェンダー、セクシュアリティ、年齢、身を置く立場……生きづらさの要因は、人の数と同じだけ多岐にわたり、時にはあなたと私の「違い」となって、大きな壁のように目の前に立ちはだかります。どうしたら私たちはお互いを理解し、今まで以上に自分を大切にしながら生きていくことができるのでしょうか?
自分を大切にし、他者や世界も大切にする。そんなめぐりが生まれるきっかけを見つけるために、さまざまな領域で活動するゲストを毎回お迎えし、それぞれの視点から、異なる他者と生きながら自分を大切にするための方法やヒントを探る連載をスタート。初回は、編集者・メディアリサーチャーとして活動する武田俊さんと、デザインリサーチャーの清水淳子さんにご登場いただきます。パートナー関係を築くお二人がお互いの違いを楽しめるようになるまでに辿った道のり、そしてコミュニケーションの仕事に携わる二人の視点から、多様な解釈の仕方がある「ありのまま」との向き合い方についてもお話を伺いました。
コミュニケーションに関わる仕事をする二人。パートナー同士、お互いの違いを楽しむことができるようになったのは?
―武田さんは2011年にカルチャーメディアなどを運営する「KAI-YOU」を設立され、現在はフリーの編集者としてさまざまなメディアやプロジェクトに関わっていらっしゃいます。近年は「メディアの研究と実践」を掲げていますが、具体的にはどんな活動をされていますか?
武田:週に1回『ON THE PLANET』というラジオ番組に出演するようになったことと、母校の法政大学で授業を受け持つことになったのが自分のなかで大きな変化で、この3年くらいで仕事のしかたが変わってきました。特に大学で教鞭を取るとなると、これまで自分がやってきたことを体系化して学生に伝えないといけないので、編集というものを捉え直そうと思ったのですが、自分がやっていることは「自分自身がメディアのなかに入りこんで、メディアの特性を自分に帯びさせて発信すること」だと気づきました。
メディアはラテン語の「メディウム」という言葉が語源になっていて、「中間」「媒介」という意味があるのですが、神と人を中立つものとして「巫女」「霊媒」という意味も含まれているんです。伝えるべきストーリーをもとに、打ち出していく核となる言葉をつくって広げていく過程では、咀嚼して自分のなかに染み渡らせないと届けられないという身体感覚があって。それが「仲立つ」ことだろうし、巫女や霊媒という意味があるのはしっくりきています。
―清水さんは「情報環境×視覚言語」の研究を中心にデザインリサーチャーとして活動されています。デザインを通してよりよい対話をもたらすグラフィックレコーディングの第一人者でもありますが、最近はどのような活動をされていますか?
清水:私はもともとデザイナーとしてUXデザインやブランディングデザインに携わってきました。グラフィックレコーディングの活動は、デザイナーとしていろんな人が集まる会議に参加したときに、話し合いが全然うまくいかない経験をしたことで始めました。最近は「なぜ話し合いのなかでビジュアルを使うと話しやすくなるのか」ということに対して、対話のインターフェースとして紙が機能するからなんだろうなと考えていて。私が話し合いの中で描く絵は、ただの落書きじゃないし、美術館に飾るようなアートでもない。表現ではなく、話し合いで使う言葉としてのビジュアルをどういうスキルを学べば機能させることができ、みんなで話すためのビジュアルランゲージがつくれるのかということを研究しています。
―お二人とも異なる領域ではありながら、コミュニケーションに関わるお仕事だということが共通されていますが、パートナー同士、お仕事の話をすることはありますか?
武田:毎日してるよね。「今日こういうことがあって、どうしたらよかったかな」という相談もするし。ぼくと彼女は、本当に認知の感覚が違うんですよ。たとえば新しい本が届いたときに、ぼくは本の構造を示す目次にまずしっかり目を通し、全体の構造を把握してから本文を読み始めるんです。
清水:私は本というものをプロダクトとしての体験だと思っているので、まずは重みを確認したり、パラパラめくって「こういう開き方するんだ」と確かめたり、紙やデザイン、文章と挿絵の割合を見たりするんです。以前、それで喧嘩になったよね(笑)。
武田:ぼくが「おすすめの本だよ、読んでみて」って本を渡したら、彼女は後ろのほうからパラパラめくって「ふーん、おもしろいね」って言って。「それでおもしろいって言えるの!?」って、弄ばれたように感じて怒っちゃったんです。
―本の内容をおすすめしていたのに、表面上で判断されたような気持ちになってしまったのですね。
武田:でも、彼女が見ていたのは表面だけじゃないんですよね。むしろ、紙やデザインなどの外側と、内容として書かれているものが合わさっているのが本なんだから、その見方も正しいんですよ。
清水:そういう違いが生活のいろんなところに出てきたときに、昔はよく馬鹿みたいな喧嘩していたけど、最近は「なんで違うんだろうね」という話ができるようになったよね。
武田:違いを楽しめるようになってきたよね。それは、仕事の面でも強みになるなと思っていて。ぼくでは感知できないような空間や色彩が彼女には感知できるし、思いつかない解決方法をぱっと出してくれる。あるいは自分のことが客観視しづらいとき、自分にはなかった視点をくれるから、めちゃくちゃ相談するようになりました。
清水:私は感性を自由に広げすぎちゃう癖があるので、彼がいると編集的に整理してくれるときもあります。
武田:家族が一つのチームだと考えたら違いがあったほうがいいでしょうし、今まではその違いでぶつかってきたけど、それぞれうまく武器として頼りあえるようになってきた気がするね。
1回の喧嘩で6時間くらい話すことも。「ここまで違うんだ!」と気づいてからお互いの違いを武器に
―自分と相手の違いに直面したときに、目を背けてしまったり、諦めてしまったりすることもあると思います。お二人が、それぞれの違いを楽しむことができるようになったのは、何かきっかけがあったんですか?
武田:明確なターニングポイントがあったというより、喧嘩が重なったことで「ここまで我々は違うんだ!」という事実に気づいたのかもしれません。ぼくは情緒を大切にするタイプなので彼女の対応がドライに見えることがあるんですけど、じつはそういうわけではなかったことが後からわかったり。
清水:私は堪え性があんまりないので、喧嘩して「こんなんじゃやっていけないよ!」となったら、じゃあ出てくね、とすぐ物件を探しちゃうんです(笑)。今までもそうやって生きてきたけど、彼はどんなに修羅場になっても必ず最後に「それで終わりでいいの!?」と粘ってくれる。お互いの超えられない違いに絶望を感じつつも、だからこそ話し合おうという姿勢がおもしろいなと。1回の喧嘩で6時間くらい話すこともあるんですけど、それで次に進むべき道が意外と見えてくるんですよね。
武田:人と人が情報や情緒を交換するために発明したツールが言語であり、言語を使って生まれた芸術が文学です。ぼくは文学を愛しているのだから、親しい家族間で言語を使った対話をけっしてあきらめてはいけない!という気持ちがあって。決裂しそうなときに踏ん張ったら、「どういう気持ちでそういう行動に出たの?」とモードを変えて話し合える気がするんです。そして、そこでちゃんと粘れるのはお互いの仕事にリスペクトがあるからだと思います。たとえ傷ついてしまっても、この人と対話を続ける意味がある、って考える前に感じてるみたい。
―過程を知ることで、なぜ相手がそういった行動をしたかもより理解できますよね。
武田:行動を起こした本人も、自分がどういう気持ちだったのかわかっていないケースってすごく多いじゃないですか。行動と感情の因果関係って内発的には出てこなかったりするから、対話を通して初めて気づくことができると思うんです。
清水:私は友達関係でも似ている人同士で仲良くなることが多かったので、あまり喧嘩して反省したことがなくて。全然違う人と暮らして対話するのも初めてでした。仕事なら、ぶつかって終わりにすることもできるかもしれないけれど、家族だから「バイバイじゃなくて、どうしようか」というコミュニケーションを学んでいます。
―パートナー間でのお話を伺ってきましたが、例えば仕事環境などでは、異なる他者とわかりあえずにやりすごしてしまうこともあるかと思います。お二人は、どうやったら人はもっと属性や考え方の違う人とわかりあえるようになると思いますか?
清水:人の話を聞き、自分が一度受け入れることがすごく大事だと思います。あとは、ぶつかったときに、対話のボールの投げ合いが最初に巻き起こるか否かが肝なんだろうな。ぶつかったときに、相手がちょっとでも踏ん張って自分の話を聞いてくれたら話そうと思えるし、一度でもそういう経験があれば、他の人に対しても「ちょっと聞かせて」となれる。でも、会話の応酬がなくなると、踏ん張ろうという気持ちが一気に崩れてしまう。
武田:学生時代に『界遊』(KAI-YOUの前身となるインディペンデントマガジン)を仲間たちとつくったとき、創刊号の巻頭言に「相互理解の不可能性を前提に、それでも分かりあえるかもしれない、と理想へ向けて歩むその時、わたしたちの使うことのできる唯一の道具が表現であり言葉なのだ」と書いたんです。なんか気合が入りすぎてかた苦しい文体なんですけど(笑)、それが今でも自分の支えになってるんです。そもそも自分のことですらわからないのに、他人なんだからわかりあうことは完成しない。けれど、それでもわかりあいたいという願い行動する人間の姿を「いいなぁ」と思っていて、どういう技術や思いがあればわかりあえるのかをずっと考えてます。それは芸術かもしれないし、編集やメディアが可能にするのかもしれないけれど、まずは近しい人との関係でどう対話していけるかという最初の勝負にかかっている気がして。だから喧嘩でも手を抜けないんです。
「男性は強くあるべき」だと思っていたし、「ありのまま」の肯定は現状と未来からの「逃げ」だと思っていた
―わかりあえない難しさを抱える他者と共に生きることと、自分らしく、自分を大切に生きることの両立がとても難しく感じるときがあります。
武田:「自分らしく」という文脈でよく使われる「ありのままでいいんだよ」ってフレーズは、場合によっては暴力的になってしまう言葉でもあると思ってて。まわりの人と比べて「自分は美しくない、劣っている」と感じているのであれば、「ありのままで」とその人自身を肯定するのも大切なことのひとつだと思うんですけど、境遇的なものも含めて今の自分を変えたくて、それに向かって努力している人にとっては「ありのままでいい」はかなり乱暴な一言になる。
ぼくは10代・20代の頃はなんだか常に怒ってて、自分の現状も世の中のあり方も全部丸ごと変えてやりたい、って強く思っていたんです。そのときに先輩に「ありのままでいいんだよ」って言われていたら、「いや、そんなんじゃ世の中相手にできないでしょ!」と返していたと思います。当時は遅くまで仕事して、やんちゃな飲み方をして、夢を語って無茶をして……。そういうのがいいことで、それが好きとか嫌いとかは関係なくて、若い自分はそんな場を盛りたてるのが大人になるために必要なことだと思っていた。それが楽しい人もいると思うけれど、自分のスタイルには合わなくて、身体を壊してしまって。そのときは「ありのまま」の肯定は、現状と未来からの「逃げ」だと思ってたんですよね。
清水:「ありのままでいい」って言葉は、解釈が人それぞれだなって感じました。私は彼の考えを聞いたとき、この世代の多くの男性がまとう、いわゆる「呪い」のようなものを一通り背負っている人だから、そういうふうに感じてしまうんだなと思いましたね。「男性は強くあるべき」のような。
―具体的に、どういった「呪い」を感じてきましたか?
武田:男同士は弱みを見せないのが粋な振る舞いで、悪いことをして共犯関係になることで友情を育むものだとか、そういう「ボーイズクラブ」的なもの全般です。おそらく自分が子どもの頃から持っている魂の形質はやわらかいものなのに、それを出すのが恥ずかしく思えてしまって。中高一貫の男子校出身なんですけど、男性しかいない環境でそれが強化され続けていたし、これはどうやって調整していけばいいんだろうと思い、男友達に相談しても「気にしすぎでしょ!」って言われたりして。「がんばらなくていいよ」と言われるのも嫌なので、自分の弱さを男友達に話すこともなかったですね。女性には話せるのだけれど。
清水:女性は月に1回生理があって、強制的な不自由さや体調不良を通して、弱さを許容する練習ができているとも言えるかもしれないけれど、男性はそういった弱さを見せる練習がしづらいのかもしれないですね。また、弱さという隙を見せるとつけこまれる、と思わせる社会に問題があるように感じます。
武田:弱さを出しかけている人のことはサポートしていきたいよね。「弱さ」という言い方ではなくて、「得意ではない」とか「ミスマッチである」とか、言い換えると話しやすくなりそうだとも感じました。
自分の輪郭を見つけて努力する「ありのまま」も、輪郭がないまま生きる「ありのまま」もある
―清水さんは「ありのままでいい」という言葉をどのように受け取っていらっしゃいますか?
清水:私の「ありのままでいい」の解釈は、「自分のままでいるためにどう行動するべきか?」ということ。たとえば、大学で受け持っている学生が大学院に進学すべきか、就職すべきかと悩んだときも、「A or Bじゃなくて、全部取っ払ったときに自分が何をしたいのか教えて」と伝えています。もしかしたら、ハワイでサーフィンしたいかもしれないし、山奥で本を永遠に読みたいかもしれない。自分が自分のままでいられる理想の環境を考えることで、そこに近づくためにこれからどういう道を辿ればいいか考えられるようになる。ほっこりとしたイメージの「ありのまま」じゃなくて、意外と戦略思考なんですよね。
武田:彼女は、自分自身に対してストイックなんです。「ありのまま」で誇れる自分であるために、側から見ると努力が必要なことも自然にやっていて、楽しそうなんですよね。ぼくは高校生まで野球部で、パフォーマンスを上げるためには苦しいことを耐え忍ばないとって考えていたから、「ありのまま」は努力しなくていい状態だと思って、そんなの言い訳だ、逃げだって感じていたんです。でも、彼女を見ていると「ありのまま」を追求するのに努力しているし、さらに苦しんでいないように見えたから、初めて疑問が生まれたんですよね。なんでそんなに自分という輪郭が見えるようになったの?
清水:私は田舎育ちで人と比べられることが少なくて、自分を見つめるしかなかったことも影響しているのかも。まわりのなかで自分がどうあるべきかと比較していく思考じゃなくて、そういうものをいったん全部取っ払って、自分が心地よくいられることを許される環境はどこなのか探すことも、輪郭を見つける一つの手段かと思います。多くの情報よりも、自分を見つめやすい環境が重要かもですね。
武田:ぼくは自分の輪郭がいまだにわからないんですよね。彼女はしっかり輪郭があって感覚を言葉にできるんですけど、ぼくは相手に入り込んで、人の話が自分のことのように聞こえてくるタイプだから、編集という仕事には向いているかもしれないけれど、「ありのまま」と言われると……。
清水:最初は私もみんな自分の輪郭が見えているものだって勘違いしていたから、俊くんに対して「自分の輪郭を持ちなよ」って言ってたんです。でも、きっと輪郭がないほうが心地よいんだろうね。輪郭がないまま、関係性のなかで溶けながら流れるように生きているから。
自分の自由がきかなくなる瞬間は、自分の「ありのまま」が見えるチャンスでもある
―武田さんは、自分を大切にできているなと思う瞬間はありますか?
武田:最近やっとできてきました。学生時代から料理が好きなんです。友達に「お前は『ていねいな暮らし』タイプだよね」って言われたときは、もう二度と「ていねい」なんかしない!って思ったけど(笑)、やっぱりそうしたい部分があるみたいで。人から何か言われたり、冷やかされたりするのは関係なく、自分のなかでやりたいことが見えてきている気がします。
あとは、20代の頃は趣味を蔑ろにしていたんです。「文化を享受するだけの趣味人にはなりたくない」って公言していたけど、本当は好きなものばかりで多趣味なんですよね。今は釣りをしたり、格闘技を習ったりしていて、その時間がすごく重要で。趣味はその文化の集団のなかで世界を味わうことであり、世界の味わい方のバリエーションが趣味なんだなと気づいたんです。その一つひとつに固有の歴史があって、文化があって、人の思いがある。こんなに素敵なことはないなと。今は仕事のために趣味の時間を疎かにするのはよくないなと思っています。
―逆に、自分の輪郭を持っている清水さんでも、「ありのまま」でいられない、自分を大切にできないと感じるときはありますか?
清水:就職して最初の3年がまさにそうでした。伝言ゲームのようにWebサイトの色を赤から青に変更しろと言われて夜通し仕事するだとか、ロボットみたいに末端として働いたときですね。私はその頃、自分が一番心地いい状態ってなんだろうと紙に書き出していました。そうしたら「お花を育てて四季を感じながら暮らすこと」「好きな人とおしゃべりしながら感性を表現すること」といった、すごくシンプルなことが出てきたんです。これを実現するために何をすべきかと考えたら、自然と道が決まって、苦しくなくなりました。
―その3年間がなかったら、今のようにはなれなかったと思いますか?
清水:自分の自由がきかなくなる瞬間って、自分の「ありのまま」が見えるチャンスでもあると思います。大学時代は楽しすぎてストレスなんかまったく感じなかったから、自分の輪郭もわからなかったんですけど、体も心も不自由になると自分が見えてきました。自分のありのままの輪郭を維持するには、何かアクション取らなきゃやばい……というときに身体が動き出すんですよね。
武田:制限があると見えてくるものがあるよね。
清水:苦しい環境に身を置くことがいいとは思わないけど、もし同じように感じている人がいるなら、その人にとってチャンスの時間でもあると思います。
―自分がどんな状態なら心地がいいかすらわからない人も多いかと思います。そうした人は、どうしたらいいと思いますか?
武田:心地いい場面を書くのが難しい場合は、逆に嫌なことを書くほうが手っ取り早いと思います。自分を内側から立てていくのではなく、外側を崩していく作業。
清水:私もやっていました。嫌なことがあった日は、嫌だと感じたことを全部ノートに書き出して、そのあと3か月間寝かせるんです。3か月後に見るとだいたい忘れているので、それは消して、その日も嫌なことがあったら書いて、また3か月後……と繰り返すと、時を経ても残っているものが本当に嫌なことなんだとわかるから。
武田:外在化して眺めるのを繰り返すことで、輪郭を見つけることが習慣化されていたんだよね。彼女はもとから自分がある人だと勝手に思っていたけど、努力を努力と思わないまま習慣にしてきたからあるのであって、最初からあるわけじゃないんだな。
どういう状態の自分がいちばん心地いいかを知って、その軸が育ちやすい場所に少しずつでも近づいていけたらいい
―心がざらついたときは、まず書き出すことから始めたらヒントになりそうですね。武田さんはそういった習慣はありますか?
武田:ぼくは書くことはあまりせず、人に話すことが多いです。どんな方法でもいいからまずは心に抱えているものを出して、それをいったん外側の視点から眺めることが大事だと思います。そうして初めてかたちが見えてくる。それを複数人いる場で、インターフェースを共有して行う対話がグラフィックレコーディングだよね。モヤモヤが話しやすくなるのは、みんなで客観化して眺めているから。彼女は夫婦で話しているときも、話したことを紙に描いたりするんですよ。最近はそれが発展しすぎて、ぼくがどういう状態か自分自身わからないときでも、彼女はわかっていたりするんです。「ごはん食べて落ち着きな」って(笑)。
清水:観察するのが好きなんですよね。UXデザイナーはペルソナを立ててジャーニーマップを描いて、人の行動の始まりから終わりまで分析する仕事だから、彼のジャーニーマップもすべて描けるくらいに見えるんですよ。
―お二人のようにお互いの違いを楽しみながら補いあうように、自分自身のなかでできること・できないことを受け入れ、心地よい状況を考えることが「ありのままでいる」ということなのかもしれませんね。
武田:「ありのままである」というのは自動詞、英語ならbe動詞だから、「こうなりたい」の手前の、人間のアーキタイプそのもののことだと思っていて。全部捨て去ったと思っても、ただそこにあるもの。それを大事にすることは、「ほっこり」でも「逃げ」でもないんですよね。そのことにぼくは気づけなかった。彼女に昔、「休符も音楽だよ。休みも仕事だよ」って言葉をもらったときはびっくりしたんです。休むのはタフじゃなくてかっこわるいし、みんなが寝静まったあとに爪を研ぐように仕事するのはかっこいい!っていう価値観が、ばりばりと剥がれていきましたね。
清水:「ありのまま」は『アナと雪の女王』で歌詞になるくらいメジャーになってるけど、「ある」を漢字の「在る」だと考えてみると少しニュアンスが変わる。言い方を変えたら、今まで抵抗があった人もスッと受け入れられるようになるんじゃないかな。
武田:「ありのまま」の自分を肯定するよりも、受け入れることを先に考えるべきなのかもしれないですね。ぼくは数学のできる人に憧れがありますけど、どれだけ頑張っても自分にはできないと今は受け入れていて。受け入れたことで、違うしかたで数学的知性を持った人と関われるようになった。そのように、受け入れてもいい特性は自分のなかに存在していると思います。
清水:自分の「ありのまま」とどう付き合っていくかが大事ですよね。「もう今のままでいいじゃん!」というヤケクソ状態で「ありのまま」と付き合うことは少しむずかしい。どういう状態の自分がいちばん心地いいかを知って、その軸が育ちやすい場所に少しずつでも近づいていけたらいいですね。
取材/文:石澤萌
撮影:西田香織
編集:竹中万季(me and you)