三宅香帆&安達茉莉子が語る「働きながらも豊かな生活を送るには」。全身全霊で働いてしまうあなたへ
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こころが、おどる
日常に追われ、一息つこうとして開くのはスマホのゲームやSNSばかり。気づけばこれまで好きだった本が読めなくなっていた……。そんな経験はありませんか? 「全身全霊」で頑張ることを求められるこの社会の中で、自分好きなことや趣味に時間を使うことに難しさを感じる人が増えているようです。
そこで今回、ベストセラー新書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の著書で文芸評論家の三宅香帆さんと、暮らしを見直すことで自分の心地よさを取り戻す「生活改善運動」を続ける、作家の安達茉莉子さんが対談。お二人と一緒に、働きながらも「趣味」や「自分の時間」を生み出すにはどうしたらいいのか、現代社会において、いかに豊かで実りある生活を築いていけるか、考えてみたいと思います。
多くの人が「働いていると本を読めなくなる」問題を抱えていると気づいて
―三宅さんの著書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は発売1週間で累計発行部数10万部を突破し、いかにこのような悩みを抱えている人が多いのかが顕著になったように感じます。三宅さんがこの本を書こうと思ったきっかけはなんだったのでしょうか。
三宅:映画『花束みたいな恋をした』を観たことが、一つ大きなきっかけになりました。著書の中で何度か取り上げている作品ですが、この映画の主人公・麦くんが就職をしたことで、これまで大好きだった本が読めなくなってしまうところに、すごく共感したんです。私は、とにかく本が好きで、本をたくさん買うことができるようにと就職をしました。ところがいざ働き出すと、全然読めない。
でも聞けば、私の周りの友人たちも多くも「働いていると本が読めないよね」と言うんです。映画の麦くん然り、私以外にもこれだけ同じような人がいるということは、個人の問題ではなく、社会全体の問題なんじゃないか。「働いていると本を読めなくなる問題」をもっと掘り下げてみたいと思いました。
―安達さんはこれまでに「本が読めない」悩みを抱えたことはありますか?
安達:あります、あります。引越しで本を詰め込んだ段ボールをベッドの下に押し込んだまま、半年ぐらい出さなかったこともありました。これまで自分の一部のような存在だと思っていた本に、触れることさえしていない自分に気づいたときは、ショックを受けましたね。不思議だったのが、本と同様に、これまで楽しんでいたNetflixの映画も見られなくなったこと。それでも、YouTubeのショート動画やSNSは見ることができたんです。
三宅:すごくよくわかります。まさに本を読めなくなった麦くんも、スマホで「パズドラ」をすることはできた。それは自分が予想できる範囲の反応だけが返ってくる、ある種のコントローラブルさのある娯楽だったからだと思うんです。おそらくYouTubeのショート動画も同じですよね。そこにはストーリー性などなく、大体予測の範囲内の情報が流れてくる。
安達:確かに、本や映画など、ストーリーがしっかりあるものと向き合うためには、「ちゃんとしなきゃ」という気持ちが湧いてきます。でも、疲れているとそれがなかなか難しいと感じます。その点、YouTubeのショート動画は正直、気楽に見られるというか……疲れている時は特にその傾向がある気がします。
三宅:スマホゲームやショート動画に対して、本や映画は予測不能なエンターテインメントで、受け手にとってはどういう気分になるか分からない、アンコントローラブルなもの。ある意味“ノイズ”だらけと言えると思うんです。例えば、子どもの頃、私はよく漫画雑誌を読んでいたのですが、そうするとお目当ての作品だけでなく、掲載されている他の作品も読むことになりますよね。そうした偶然性みたいなものも楽しさの一つだったと思います。
それが今は漫画を一話ずつ買うことのできるアプリがあって、自分の好きな作品だけを読むことができる。音楽も同じで、以前は、アルバムを丸々聴いていたのが、今は自分の聴きたい曲だけを組み合わせてプレイリストにできるようになっています。こうして自分の求めているものや、予想できる範囲のものだけで楽しむことが当たり前になっている今、自分とは関係のない情報や知識は、“ノイズ”になってしまう。私自身も、周りを見渡してみても、このノイズを取り入れる余裕がなくなっているんだろうなと感じます。
ノイズは、私という畑の土を豊かにしてくれるもの
―忙しく余裕のないとき、自分とは一見関係のない情報や知識は排除したくなってしまうものだと思うのですが、“ノイズ”は、人生にどんな影響をもたらしてくれるのでしょうか?
三宅:人は、人生を歩む過程で、偶然他者と出会ったり、衝動的に何かを好きになったり、さまざまな“ノイズ”を取り入れていくと思うんですよね。何を取り入れるかは人それぞれ違っていて、だからこそその中で、本当の自分らしさとか価値観みたいなものが形成されていくんだと思うんです。
安達:そのお話を聞いて思い出したのが、言語学者の伊藤雄馬さんの本『ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと』です。この本の中で、伊藤さんは、ムラブリという少数民族を研究しながらいろんな壁にぶつかっては逃げて、ということを繰り返します。その自分の逃げる行為を「走光性」に例えていたんです。
三宅:「走光性」って、虫が光に向かって飛んでくる反応のことですよね?
安達:そうです。彼は、嫌なこと、つまり“ノイズ”から自分が逃げ続けていると思っていたけれど、実はそうすることで、より自分らしくいられる状態になっていくと気づいた。それを伊藤さんは、「走“ぼく”性」と呼ぶんです。ひたすら逃げている、そう思っていたけれど、「ぼく」自身に向かって走っているのではないかと。それを読んで泣いてしまいました。私も、これまで自分は逃げてばかりだと思っていたけれど、たどり着いた今この場所が一番心地いいし、自分らしくいられると感じます。必ずしも“ノイズ”をすべて受け入れなくても、“ノイズ”に対する自分の反応が教えてくれることってあるんじゃないかなと思ったんです。
三宅:すごく面白いですね。私も伊藤さんの本、ぜひ読んでみたいです。
安達:それから私、“ノイズ”はどこか微生物にも似ているなと思っていて。これはソーシャル・キャピタル論を研究している佐藤嘉倫先生から聞いた話なんですけど、人脈って、狙って作ろうと思ってもダメなんですって。たまたまの出会いこそが、のちのち面白いことになっていく。だから「人生というのは副産物なんですよ」とおっしゃっていて。それを聞いてまさに“ノイズ”は副産物として機能するんじゃないかと思ったんです。自分には関係ないと思っていても、いろんなところに首を突っ込んだり、人に出会ったり、いろんな本を読んだりしているうちに、まるで微生物たちが畑の土を豊かにしてくれるように、私を豊かにしてくれる。そのうち面白い芽が育つかもしれないし、立派な木が生えてくるかもしれない。もちろん何も起こらないかもしれないけれど。
三宅:まさに自分が想定しないものに出会うって、可能性を広げることだと感じます。ただ一方、やっぱり忙しかったり、余裕がなかったりすると、他者と向き合う気力が湧いてこないんですよね。
全身全霊で働くのが良しとされる社会で、バーンアウトを防ぐには
―読書を“ノイズ”と感じてしまう人の多い現代社会では、多くの人が余裕をなくしていると言えそうです。三宅さんは著書の中で、特に20〜30代は、「好きなことで生きていく」という仕事、人生観を持っていることもあって、「全身全霊」で働いてしまう人が多いと分析されていますね。
三宅:80年代後半までは、労働とは、社会や家族のためにするものだったのが、90年代以降、労働によって自己実現を図るべきという、「新自由主義」的な風潮が広がりました。村上龍氏の著書『13歳のハローワーク』がベストセラーになったのも2000年代です。労働が自己実現と結びついたことで、現代では、余暇も仕事のことを考えて全身全霊で働き過ぎてしまう、頑張り過ぎてしまう人が増え、バーンアウト(燃え尽き症候群)という言葉もよく聞くようになりました。でも、バーンアウトした先に突きつけられるのは「自己責任」。会社が十分に助けてくれることも難しく、自分で立ち直らなきゃいけない。こうした社会の構造が、私たちの余裕をさらに奪っているように感じます。
安達:私はどうしても全身全霊になってしまうタイプで、私の歴史はまさにバーンアウトの歴史だといえると思います。ただ、以前は「燃え尽きるのがかっこいい」というような価値観もあって、憧れを抱いていた部分もありました。でも、実際なってみると本当につらくて。それこそ、本なんか読めないし、目の前がぐちゃぐちゃで何も片付かないし、何もやる気が起きませんっていう、軽い抑うつ状態ですよね。
三宅:私も振り返ってみると、社会人になったばかりの頃は、全身全霊で労働していることで、「ここまでやっているんだ」という安心感を得ていたところがあったと思います。
―働き過ぎによるバーンアウトやうつ病を抱えている人が増えている中で、どうしたら自分の健康や生活を守れるでしょうか?
安達:以前、すごく仕事が立て込んでいるときに、友人から本当に無邪気な遊びのお誘いメールがきて、自分との温度差に思わずイラッとしてしまったことがあって……。普段なら嬉しいはずなのに、そんなふうに感じてしまうだなんてと、自己嫌悪に陥りました。仕事は大好きなのですが、どうしても締め切りや「ちゃんとしたものを作らなきゃ」というプレッシャーもあって、その成果に追われていると、だんだん目が吊り上がって「ノイズ除去モード」になってしまうんですよね。私の場合、それが「本が読めなくなる」もっと手前の、人とのコミュニケーションに現れるんだということに、友人からのメールという “ノイズ”によって気づかされました。
三宅:自分が今「ノイズ除去モード」になっていると気づく体験って、すごく大事だと思います。それこそ本が読めないとか、友達からのメールにイラつくとか、映画が観られないとか、自分のスイッチを知っておくと、自分の精神状態にも気づきやすくなりそうですね。
安達:そのとき “ノイズ”をどう感じるかが、自分の精神状態を知る一つのバロメーターになると思います。今、私の住んでいる家の近所に学童があるのですが、子どもたちがキャッキャッと遊ぶ可愛らしい声がよく聞こえてくるんです。でも、本当に追い詰められた状態だったりすると、それを「うるさい」と感じてしまう精神状態も、もしかしたら誰にでもありえるのかなとも考えました。 “ノイズ”を文字通り音と例えるなら、どんなに美しい音も、うるさいと感じてしまうことってあると思うんですよね。でも、そう感じてしまったときの自分を否定しなくてもよくて、ただ「ハッ」と気づけるだけでいいと思うんです。「この感じ方がすべてじゃなかった」みたいな。
三宅:私は決して全身全霊で働く人を否定しているわけではなく、個人的には、人生の何か一部の時間で「全身労働」にならざるを得ないタイミングや時期はあると思うんですよね。それが悪いというよりは、「ノイズ除去モード」で全身労働するのが「サラリーマンの理想像」とか「スタンダードな働き方」にならなくてもいいんじゃないのか? ということが言いたくて。やっぱりノイズを楽しめるような状態の自分もありたいなと思いますし、全身全霊で働きたい自分も、ノイズを楽しめる自分も、どちらも両立できるのが理想ですよね。
これからは、「半身」で働くのが理想。仕事とノイズの理想のバランス
―個々の成果が求められる今の社会では、どうしても余裕がなくなりがちで、ノイズを取り入れながら働くことはなかなか難しいようにも感じます。どうバランスを取れば良いでしょうか?
三宅:食事で考えるとわかりやすいと思うのですが、タンパク質が大事だからって3食プロテインだけ摂っていたら、やっぱり体に良くないじゃないですか。でも結局バランスよく、みたいな話になると、「一番一番難しいやつじゃないか!」と感じますし、何事もどっちかに偏ってしまいがちなのが人生だとも思うんです。だから、偏り過ぎているなと気づいたら、「ちょっとビタミン取ろう」くらいの感覚で、ノイズを取り入れられたらいいのかなと思っています。
ただ、これからの時代を考えて私が思うのは、何か一つのことに熱中することを、奨励し過ぎない、全身全霊で働くことを賞賛し過ぎないようにしたいということ。どうしても共同体や組織の中では、24時間フルコミットして、全身全霊を捧げてくれる人を望むものだと思うんです。それは理解しながらも、そこに抗っていく空気を作りたい。「半身(はんみ)」で働くくらいがちょうどいいのではないでしょうか。タンパク質が大切だからと言って、全身タンパク質ではおかしいだろう、と。半身タンパク質くらいがちょうどいいと(笑)。
安達:本にも書かれていましたが、「半身」って、面白いですよね。
三宅:たとえば、コミットする先を1つではなく複数持つ。兼業で働くのもいいし、趣味や家庭などさまざまな場所に居場所を持つ方が、バランスが取れるんじゃないかなと思うんです。そもそも社会全体も、労働人口が足りなかったりとか、共働きになっていたりして、個人が全コミットするやり方がうまくいっていない状態になっているとも思います。今後は「半身」ぐらいの方が、社会としても個人としても、バーンアウトが起きにくく、持続可能性があるんじゃないのかなと思います。
安達:全身全霊型である私も、長い目で見てバーンアウトしないようにやっていこうと真剣に考えると、どうしても「半身」にならざるを得ないという気もしています。『ダンジョン飯』という漫画ですごく好きなセリフがあって、あるケンカのシーンで、食事や睡眠もとらず、飲まず食わずでやっている登場人物と言い合いになって、少しは本気で物事を考えたらどうだと言われて、主人公がすごく怒るんですよ。「一日3食しっかり食べて睡眠をとってる俺たちの方がずっと本気だった!!」(『ダンジョン飯』第38話/九井諒子)って。一見、飲まず食わずでやる方が真剣だって思われるかもしれないけれど、真剣だからこそ、ちゃんと寝て、ちゃんと食べるんだって。
三宅さんの「半身」の考えとは主旨がずれてしまうかもしれないのですが、たとえ「全身全霊」でありたいと思ったとしても、なおさら自分の全部を一つの文脈に全投入しないことが大事なんじゃないかと思ったんです。そういう意味でも「半身」は面白いし、「半身」を意識したら自分はどんなふうに変わっていくだろう? って、試していきたいなと今すごく思っています。
本を読める余白を作るために。疲れたら、休もう
―今、忙しさから自分の生活や心をおざなりにしてしまっている人、ノイズ除去モードになってしまっている人はたくさんいると思うのですが、ノイズを取り入れられるような余裕・余白を生み出すには、どうしたら良いでしょうか?
安達:私はバーンアウトして、これはもう無理かもと思ったときに、集中的に休んだことがあって。最初は本当にただ寝て起きての生活でしたが、そうこうしてるうちに、ふと本が読みたくなったんです。そのとき、改めて読書って面白いなと思ったんですよね。それまで、作家として「ちゃんとしなきゃいけない」と本を読んでいた節があったのだと思います。でも、純粋に、自分が面白いから読みたいんだという気持ちを思い出しました。休んで余裕を持てたから気づけたんです。
ただ同時に、休むって、簡単なことじゃないということも感じました。実は、休むと決めてから、寝て起きての生活をするまでに、YouTubeのショート動画をダラダラ1日見続けるみたいな日が何日かあったんです。それが終わった後にようやく休めるようなった。これまで全身全霊で働いていた人が、本当に休むためには、その準備が必要なんだと実感しました。だから、「スマホばっかり見ちゃって……」と自分を責めたくなってしまう人は多いと思うけれど、それは体の防衛反応で、休むための導入ぐらいに考えていいんじゃないかなと思っています。
三宅:仕事も休息も、ぱきっと分けられるものではなく、シームレスなものですよね。たまにはショート動画を見てしまう、SNSをだらだら見てしまう日もあるよね、それくらい今の自分は疲れてるんだよね、ということを認識することが大切なのかもしれません。休む時間は誰もとってくれませんし、自分が守ってあげるしかない。だからこそ、休息の時間の優先順位を下げず、たまにはだらだらする日もとりつつ、働き続けることを私自身も意識していきたいです。
インタビュー・テキスト:秦レンナ
写真:小林真梨子
編集:野村由芽(me and you)